意図的な見落としかな?

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この考えは、貧しい国は資本主義化されていないからだ、というものだと僕は理解したけど、そりゃ確かにそうだ。
貨幣、あるいは資本を通じて物を商品化することで交換可能にしているわけだから、資本主義化されていないというのは現代における文脈では、物を交換することがほぼ不可能ということに等しい*1

ただこのブログの書き主が、意図的にかどうかはわからないけど見落としているのは、資本主義化された社会における富の配分が偏っていること、それによって相対的な貧困が生じるという部分。誰もがそれなりの満足を持った豊かさを享受できた時代と言うのは、最大限見積もっても80年代までのかなり古い話だし、それも一部の国の話に過ぎない。富が移転した結果と言うが、それは国同士のレベルの話のみではなく、移転元の内部でも同時に移転が起こっている。貧しい人間あるいは中間層の富がどんどん上に流出している。それを可能にしているのは政治による経済構造の操作、ないしは労働法をはじめとした各種保護を解体していったからで、通常はそのような上流に都合のいい政治体制における経済構造による富の偏り、一方的な労働の強制を搾取と呼ぶ*2

ネカフェ難民などがいなくても金持ちや大企業は困らないというが、それもおかしい。労働力は依然として金持ちや企業といった、大部分の資本の所有者が必要としているにもかかわらず、人件費は極限まで抑制したい、という使用者側のエゴのなれの果てがそのような貧困層の出現なわけで、そのように企業や国が勝手に「いらない」として捨てていった人たちの影で、必要な「労働者」として残った人たちは賃金下げ圧力の中で今まで以上の長時間労働や競争に置かれている。その反面上流階級の富は1930年代以前の最悪な自由放任主義以来のスピードで拡大していった。それを搾取、控えめにいっても少数による少数のための世界、世界の私物化と言うことが間違っているのなら、何が搾取であり私物化なのだろうか。

偏りに関しては自然法則というよりは政治的な問題だし、共同体の中で生きたいのなら、そしてそのような偏りを認めるなら共同体である以上、同時に不利益をこうむる人たちが抗議する抵抗することの正当性も認めなければならない。共同体とは尊厳ある対等な人間同士が共に暮らすということであって、人間の生活の基本となる経済において強制的な上下関係を持つ共同体を正当な共同体と見るべきではない。もしそんな共同体がお望みなら金持ちだけでモナコのような国を作って、モナコより徹底的に貧乏人をすべて締め出したらいかがだろうか。派遣村はなくなり、ネカフェ難民もギャースカ騒ぎ立てる不穏な貧民はいなくなる代わりに、金持ちの部屋とベッドをはした金で毎日完璧にきれいにしてくれる使用人もいなくなるが。

むしろ、このブログの文から僕は、偏ってても資本主義の恩恵を受けてるんだからがたがた言うなという傲慢さすら漂っている印象を受けたんだが、いかがだろうか。まぁ、どうやらこのブログエントリ、というかブログ自体はネタらしいけど、一見不まじめさんを装っていても書いてあることはまじめだと思うので、所属する社会階層が違う*3以上議論しようがないことをさておいて、僕もまじめに書いた。

*1:いったん資本主義的に商品化されてしまえば、金さえ積めば買える状態になるわけだから(現実にはそこまで極端じゃないが)、資本を多くかき集めればそれだけ多くのものが買える、あるいは独占できる。この資本と言う富を増大させるプロセスの中では消費の拡大、あるいは資本の流れの増大こそが重要になり、それゆえ莫大な消費と破壊が引き起こされ、より多くの資本を集められる経済体制への操作が試みられる

*2:もちろんリソースの搾取、先住民たちの住む環境への搾取など労働以外の搾取もあるし、それはとりわけ大企業や政府によって日常的に行われている。購買力のある他国の顧客のための製品を、規制の甘い国に工場を移転して、地元の人たちには少々の富の移転と悪化する環境をもたらす、という資本主義経済のものさしで全体的に見ればつじつまが合っているように仮に見えたとしても、その地域においては重大な不利益をもたらしているケースが世界中で見られるからこそ、世界中で人々が反資本主義の声を上げてるのではないだろうか

*3:資本主義の恩恵の受け方の違う