僕の基本的考え ver.1.1.0ぐらい

僕の基本的考えなのですが、人にはある程度の運命というものがあり、同時に多くの他者と共通する人為的、社会的、自然的関わらず普遍的な願望があるというところから出発しています。せっかくかなり終盤まで書いたのに手違いで消えてしまって書き直しです。絶対もう同じようには書けない・・・・。僕は学術的系統や本質的な議論から切り離されているので、ほとんど自分ひとりで、しかも非学術的に自分の考えをまとめていかないといけない、というわけで読む方は枝葉や矛盾、学術的な間違いではなく、僕の基本的な考えを理解することに重点を置いてほしい。とはいえ矛盾や間違いに対する指摘・反論は嬉しいのですが。

この、人が概ね共通して求めるもの、あるいは願望の共進化*1、あるいは求める内実は違っても記号的に共通するもの*2、これらは不完全ながら国連の世界人権宣言に端的に表されているといってもよいでしょう。 現実には人は、社会的要求の不一致、社会的状況、遺伝的、周囲の環境などさまざまな要因に由来する過酷な運命に苛まされます。他に助けてもらうことで、あるいはともに助け合うことでそれらを軽減することは可能です。しかし、他人を助ける、あるいは助け合うことには明らかな限界があります。他者の過酷な状況に関わるということは、自らの苦痛にもつながりかねません。そして人は、自ら働きかけ、状況をある程度変えることができるというほぼ誰もが疑うことのない、明らかな特性があります。そのため、自助努力、自己超克、自己に対する納得、あきらめといったものは比較的普遍的に理解されやすいわけです。同時に人は過酷な運命や苦痛にある程度耐えられるという明らかな特性もあります。そのため我慢する、耐えるといったことも普遍的に理解されやすいわけです。同時に人は将来のことを確定的に知りえず、それゆえに希望を持てるという特性もあります。この見通しのきかないことをいいことに、他者を騙したり、自己を騙す自己欺瞞を利用して他者に自己の現状を認めさせようともします。人間誰しもそれらの能力を備えているという前提に特に問題があるとは僕は思いません。問題は、ある人のそうした能力がどの程度なのか、他人にはそう簡単にわかることではないということです。こうした個々人の背負う運命的な要素を無視、あるいは軽視した上に社会を築くことは直接、差別や軽蔑、非協力的な姿勢、利益の恣意的配分などの排他的な行動を引き起こすでしょう。

個人の能力には限界があります。それゆえに僕が要求する、または傾倒する社会の方向というのは、これらを可能な限り和らげる社会なわけです。 ある社会というものを想定してみましょう。その社会はごく一般的なクリシェに基づけばごくごく「自然」なもので、人は誰しも働かなければなりません。個人的な意味合いでは、 自分に日々の食事を提供するため、場合によっては親しい人(たち)を養うため、そしてすでに見えているエクストラの獲得ないし消費を行うため、社会的な意味合いでは現状の社会 - 自分たちの一定水準の生存と生活を保障するため、人々は誰しも働かなければなりません。生存のための収入を得る方法は大別していくつかに別れます。自分の労働力を売って賃金を得るか、自分の労働力を利用して他の商品を売り買いして(労働力を含む)賃金によらない資本を積み上げ、その一部を収入にあてるかです。それがダメなら誰かに養ってもらうか、公的あるいは社会的補助を頼りにするしかないわけです。

上のどの方法にしても抑圧的で競争的です。そして他の選択肢や個々人の多様な運命をほとんど考慮できないという意味で支配的なのです。この中で、最低限の収入ないしは、さまざまな支援の要求に対する公的ないし社会的な制度は、現時点で多くの社会におけるもっとも強力な統合体 - 国家がエンジンブローを起こさないための、潤滑油としてのもので最低限なものです。このような社会では人はそのような不利やハンデを受けたが最後、多くは、適切なケア、あるいは例外措置によらない限り、商品価値は値引き状態あるいは不良品扱いなのです。しかし潤滑油として用意された容量は最低限なもので*3、どのような観点の必要からに関わらず多くの人たちが、上記のどの手段からも零れ落ちています。4つ目の生存方法、放浪、5つめの方法、協力し合って収入ないし食料など必需品の生産を確保し、生存するという方法は国家からも企業からも、そして大抵の場合社会からも良くて無視され、場合によっては何らかの強制的排除に帰結します。あるいは必要に満たないため結局生存の危機に晒されるのです。

個人の過酷な運命を妨げ、抑圧を回避するということは、結局資本主義社会には根本的に反対するということになります。資本主義はこうした個人の差異、当然ながらそれは当人にとっては偶然の帰結であるもの - に主に経済的な序列を付け、漫然と差別するわけです。誰もが商品として選別されるのです。クロコ汁として例を挙げるならはまさにそのような適応が生来難しい、そしてそれは周りの環境 - なかんづく母親によってさらに歴然となる、いわゆる努力の出来ないADHDにおいて顕著でしょう。それらの不当な行為、というか暴力的な状態に対抗する人々、あるいは状況に適応する人々によって資本主義は徐々に形を変えつつあり、何を重視するのかも変わりつつあるわけですが、この基本的な状態には見るべき変化はありません。上述の通り、労働力を賃金に限定された場合、変動する利益に対して賃金が比較的変動しにくいという安定性と引き換えに、自分がどれだけ働こうとも、どれだけ生産しようとも賃金以上のエクストラは大部分が余剰利益として搾取されてしまいます。ただしこの安定性も非フォーディズム型の資本主義ではどうだか怪しいのですが。

資本主義およびミニマムでしかない相互扶助を支え、抜け出すことの出来ない、制度上、そういう枠組みにおいてしか話を進められない政治にも根本的に反対するということになります。端的に言ってもそれは人類を含めた生態系と環境に対して破滅的です。それゆえ、僕にとっては民主党が政権を取るとか、まぁ特定階層の苦痛や抑圧の程度を若干調節するという意味でそれなりに重要なわけですが、基本的には通過点とすら言えない些細な話なのです。

また資本主義社会でなくとも、 人が持って生まれた、あるいは現在までに背負うことになった過酷な運命を和らげるどころか社会自体が過酷な運命の生成マシーンとなっていることを無視する社会を否定しないなどということは僕にはできないのです。

上述の自己と社会的要求の不一致の連続は端的に言って個人の精神と健康を破壊する高い可能性を持っています。そのような不一致は問題に直面する当人だけではなく、社会にとっても本質的には不利益をもたらすのです。問題を個人の不届き、自己責任、不運などと定義して、専ら自己変革や個人的幸せの問題と理解することは自らの社会的範囲を非常に狭い範囲に限定してしまうことです。こうして人々がばらばらに分裂して無力と化した社会が達成されるでしょう。個々人が無力となった後、僕たちを支配するのは、どれほど控えめに表現しても暴力的としか言えない資本主義的ダイナミズムです。その際すべての人の人生は、この大波にうまく乗るサーファー人生を容認するか、否定するかの二択でしかなくなるでしょう。波乗りが苦手な人はどうするのか?というのが僕の問いなのです。

僕が求める社会について、明確で一貫した考えがあるわけではないのですが、それは少なくともそうした個々の運命を背負った個人より発せられる多様な生、ある程度は人に共通した普遍的な生とその要求を、最も広い概念における社会で共有することなのです。それは個々人の生のコモンズとでもいうべきものでしょうか。それは個人が人々の総意というものに無視されることを意味するわけではありません。人間の運命およびその「操作能力」の差違は、現状の社会では結局収入、資源へのアクセス、社会的地位など多岐に亘っての不平等をもたらし、そしてもっとまずいことに他者と競争し、他者を出し抜き、踏みつけ、葬り去ってしまうこと肯定(それが積極的、消極的かに関わらず)することによって公然と拡大されて行きます。そうではなく、そのような不平等がもたらす困難をカバーすることにリソースを優先的に配分できる社会こそが個々の生を共有できる社会となるでしょう。各人固有の人生の背景に刻まれた過酷な運命を人々が社会的に共有する、それは社会的に軽減、改善あるいは解決され、その反対に生のポジティブな側面、才能やそこから生み出される価値あるものをそのために共有するという目的を阻害しない社会こそが目標なのです。

その社会において命令的な、懲罰的な、固定的かつ個々人のシングル・イシューの存在を無視するような権力は否定されるでしょう。個人の能力の差は社会的役割の差とはなっても、それは誰が上か下かという差別の問題ではなくなるでしょう。賃金や業績、発展によって社会を動かそうとするのではなく、社会に存在するすべてのひとたちの平等な共存のために社会を動かそうとする力はより強まるでしょう。そのようなグローバルな共存、それはもちろん資本主義の名の下によるものではなく、を成立させることを目的に人々の自発的な組織の試みは広まるでしょう。戦争を頂点とする暴力は今よりも根本的に疑問視され、より制限される方向に向かうでしょう。自衛の必要性はそれに伴い減少するでしょう。誰かから要望が発せられればそれは否定されるよりは実現のための話し合い、助け、方法が追及されるでしょう。誰かから要望が発せられればそれは否定されるよりは実現のための話し合い、助け、方法が追及されるでしょう。賃金労働なんてやだ、8時間も働けない、誰もそんなに働きたくない・・・それはしょうがないと即座に答えが返ってくるより、そうでない社会的枠組みについて、具体的な話が行われるでしょう。その社会では人を非差別の精神に基づいて助け合おうという意思には最大限の支援がなされるのです。夢物語かって?まさにその通りです。ですが、今僕たちが知っているどのような社会においてもこのようなアイデアの片鱗はあります。しかし、文字通り圧倒的な圧力を持つ現実を前にして、僕たちはそれを全面的に自分たちの社会の基本にすることは容易に認めきれないのです。

まぁなんといいますか、在特会なんかに行く人たちは、そして日本の大部分の人たちはこういう考え方にかすっているかもしれないけれど、こういう個々の過酷な運命の、それが誰にでもありえるという平等性(そして現実にはムラがあるという非平等性)ゆえに考え直されなる必要がある社会なんて話は素通りしちゃっているんだろうなと思う次第。

*1:たとえば誰も車を持っていなくて車のことを知らなければ車は誰もが求めるものではないが、一度みなが知ってしまい、持ち始めれば誰でも求めるようになるもの。人権も同じようなものかもしれない。

*2:人から抑圧されたくない、幸福と感じる状態でありたいなど

*3:もちろん国や地域によって差はある