残念卓

どう考えても、シャワー浴びてるときなんかのモノローグや一人考え事しているときの方が、創造的なんだよな。どんぐらい違うかというと、執筆中の20倍、会話中の80倍(当社比)ぐらい。

ちょうど夢を見ているときと同じように、アイデアや思考の繋がりがとりとめも無く流れて行っては直前のことは忘れ去られる。シャワータイムなど、その時間を提供していた環境が変わるとあっという間に忘れるところも夢と同じ。

仮に人の脳内の志向を自動的に記録する技術が開発されれば僕の人生や他の人たちは革命的に変わるだろう。特に現実と脳がうまくリンクしていない人のぶんほど。

ただ、思うのはそうなった場合、そのように自動的に記録された思考やアイデアによる何らかの発展的な成果は誰に還元するのか?思考した個人のものにするのか、人類共同の財産として共有するのか?この今の特許や資本の問題とも絡むテーマについてみんなどう考えるんだろう?

とかそういうことを考えるわけですよ。なんとか今シャワー中の考えの一部をここに記したけど、これでも5%ぐらいか。特に上の3段落は思考の内容と流れを忠実になんとか書き写した。ADHD独特の、次々の隣に連想が広がる蜘蛛の巣思考の一端を見ていただければ幸い。

ADHDらしく僕は対話は超苦手というより成立しない。人と対峙すると、そのことでタスクがほぼ100%になってしまって、自分の考えがまったく押しつぶされるわけだ。ダンスやってても同じ。刺激に釣られて操られるだけ。その中で何か必死にしようとしてもいつもほとんど同じ結果しかしない。シャベルにしても踊るにしても、事前にこうしようああしようと思ったところで、いざ始まると違うことをする。100回やり直しても101回そのパターンに落ち着く。だからまともに会話にならない。ダンスにもならない。意味の無い言葉の羅列に等しいし、子供が手足をばたばたさせているのとたいした差はない。特に強迫性障害あたりが重なると、やるべきことの大変さの前に、自分の考えをまとめる気すら起きなくなるのでさらに支離滅裂になる。時間的猶予、タスクをもっとゆっくり切り替えられる書くときはもう少しどころか劇的にマシだが、それでも相当苦労するんで、書けるときと書けないときのムラが激しい。

そしてジレンマにいらいらする。自分の知識と語彙でこれを表現しても、どうせみんなそれは誰でも一緒だよという理解以上のものはめったにしないだろう。著しい程度の差がADHDなのだが、既存の僕が知っている語法、それは僕の日常生活の中で培われたものだが、それによってはADHDの特徴を的確に表現するのがなんと難しいのかいつも痛感する。喋るときはこの80倍の困難だが。


そんな今は、最近定期的にやってきて1週間ほど居座る書くハイパーフォーカス実施中。