暴れるとはどういうことか

泣ける。今回のエントリ、一旦テキストエディタに書いて保存したのですが、再度開いてみると全部文字化け、というか????の羅列に・・・・。しまった。うっかりANSIで保存してしまった。もう一度書くのか?前回よりいい文章はもう書けないぞ。


ま、とにもかくにもパリに行ってきました。

僕のパリ旅行記を書く気力はないし、文章消えちゃったし、というわけでちょっと違う話を。


パリの名物といえば、そのひとつにキレる若者(別に若者じゃなくてもいいんですが)がちょくちょく街に繰り出して暴れまわるというのがあるわけです。その際高価な車が燃えます。というよりは燃やされるのですが。安いプジョートヨタヒュンダイなども燃やされます。本当にパリは危険な街です。危なくて特にエリゼ宮のあたりなど、おちおち観光していられません。彼・彼女らが抱えている不満は理解できるかもしれませんが、日本においてはだからといって街に出て暴れる人間を理解することは期待できません。ほとんど同情の余地もありません。理解できてしまう人は非国民です。同情を寄せる人たちも非国民です。

トーキョーでは不満を抱える若者(別に若者じゃなくてもいいんですが)はそれを内に閉じ込めて自分ひとりで抱え込んでしまいます。それが社会問題かどうかなんてお構いなしです。もしかしたら、ごくごく親しい人たちの一部には愚痴という形で不満をぶちまけるかもしれませんが、多くは後の祭りになってから知られたり、知られてもなんの効果的な助けも得られなかったりするものです。そうして限界まで内面に抱え込んだ不満の終着点はひきこもりか、自殺か、他殺か、過労死か、天国にせよ地獄にせよ自宅の一室にせよ、あちらの世界、つまりあの世であるわけです。

ごくまれに、トーキョーでも一部の不満を抱える若者(別に若者じゃなくてもry)が、そうなる前に「僕(私)もう怒っちゃったぞぷんすかぷんすか」と街に出ます。が、周りを見渡してみると自分の世界に引きこもっている人たちばかりで、結局ごく少人数で暴れたり、控えめに暴れてみたり、街にでたのはいいけど暴れられなかったりする羽目になり、各個撃破されてしまいます。このように路上で自ら、あるいはグループや市民の不満を集団でぶちまける人たちの行う行為はいろいろ適当に熟慮されて、メディアのフィルターで比較的無害にろ過された後、デモと呼ばれたり暴動と呼ばれたり、迷惑行為と呼ばれたりするわけです。

その際、法律にも書かれていない「万人の権力へのアクセスへの防波堤」を日々買って出る警察という種族が、そういう人たちを軍艦巻きにして、通行人から隔離したり、適当な理由をつけて逮捕したりするわけです。警察の人たちの立場からすれば、いつ暴徒と化してぶん殴ったりするか分からないし、酷暑の日だろうが極寒の日だろうが夜だろうがお構いなしに動員されたりするしで、こういう暴れたり反抗したりする民衆に腹もたったりするわけです。暴動が頻発するようになると、そんなひどいKitsui, Kitanai, usanKusaiの3K労働に借り出されるされる怒りをますます民衆に向けるわけです。

一方暴動の都パリではどうかというと、基本的には上記のジャポネスクな状況と同じようなものです。怒りがたまっても路上に出られない人たちが大勢いますし、まるで不満の解消のためだけに見えるような暴動には同情しにくいし、警察も暴れる人間が大挙して街に繰りす日には、非番と自身の信条を返上して鎮圧、ありていに言えば弾圧してまわらなければならなくなるわけです。

違うところといえば、しばしば「僕(私)もう怒ったぞぷんすかぷry」状態の若者がしょっちゅう結束して集団で反抗しだして、200万人とか1000万人ぐらいが一緒に暴れだす点です。もちろん例えば大企業や金融という経済の蛇口を司る証券会社で若くしてマネージャーに昇進するような人は普段から栄養状態もよく、体内のカルシウム量も万全なので、そんなにすぐにはキレないわけですが、そういうときには脳に酸素が行き渡らなくなるのか、「部分的には賛成できない行動もあるが、不満をもった人間が暴れるのは正しい」とか文字通り世迷い事を言い出すわけです。比較的恵まれたこのような人たちは即座に暴動に加わることはあまりありませんが、たまに悪乗りして暴動に加わったりします。

その際には警察は、自らのご主人達の望む秩序を取り戻すため、あるいは欲望を満たすため、そういう連中を追い散らしたりぶん殴ったり、ふんじばったり野外プレイに借り出されるわけですが、何せ暴動の鎮圧あるいは弾圧というのは、ビール瓶とか石とかモロトフ外相とか、時には爆竹やちょっとした爆発物を投げつけられる危険な職務です。危険手当を出してもらえればいいという問題ではありません。時にはその額や額を増やして欲しくなるものですし、それ以前にこうおちょくられていろいろ投げつけられては腹も立つものです。警察もこうしょっちゅう暴動を起こされてはかなわないと、自身の労働条件にキレて路上に繰り出します(笑)。

警察が機動隊に鎮圧、ありていに言えば弾圧されるかどうかまでは知りませんが、消防士と警察の衝突なら日常茶飯事です。消防士も普段の職務を忘れて、道路の向こうや警察に向かって火炎瓶を投げつけます。ついでに防火用水槽のふたを引っぺがしたりもします。機動隊がキレたら今度は軍隊が出動するのでしょうが、その軍隊も最後にはキレて路上に繰り出します。


何が言いたいのかっていうと、このようにフランスでは怒りをぶつける対象として公共というものがあるわけですね。若者(別に若者ry)も警察官も消防士も、はては軍人も自分達が権力を依託したと想定されている政府に怒りが向いてるわけです。もちろん警官vs若者(別ry)の憎しみの連鎖はあるでしょうが、安全弁としてみんな権力に怒りを向けるという状況が成立してるわけです。車を燃やしたり、万引きしたり、警察に向かって石とか火炎瓶投げつけたり、防火水槽のマンホール引っぺがしたりしているのはいわゆる善良な市民な訳です。テロリストとか極悪な犯罪者なんかじゃないし、暴れる人間が直ちに犯罪者かというと現代では必ずしもそういうわけではないわけですな。恐怖政治の時代じゃあるまいし。翻って日本はどうかというと、状況はフランスと同じようなものです。安全弁は権力への怒りを逸らすという形で存在している点を除けば。後ついでに暴れる人間はもうみんなほとんど理解不能な犯罪者と認識させることに成功している点を除けば。

もともとフランスも、そして一応日本もそうなのですが、我々は民主主義、万人のための政治、基本的人権に基づいた政府に国家の運営を委託するという約束あるいは契約をしているという想定の下にあるわけです。社会契約論というやつですね。現代では国家などよりより普遍的なニュアンスの共同体という考えのほうがいいのでしょうがね。それはさておき、そうして国民が法律に縛られるということに同意していると想定されているわけです。それが例えば誰かが人権を無視されてるという契約不履行状態では人々はそれを覆す権利があるわけです。というか義務ですね。当然国家が契約不履行なので法律に従う必要はないのですよ。ただ、基本的人権などは各国の法律より優先するという想定なので(それに同意しているからこそ各国とも国連の人権宣言を採択しているわけです)、これにはすべての人が護る義務がありますし、同時にすべての人が護られる義務があります。

現実にはそういう国家のお約束がきちんと働いてないわけですよ。まず基本的人権が各国の法律に優先していないことなど日常茶飯事な訳です。会社の都合とかグループの都合とか、誰か立場の強い人の都合とかのほうが優先されちゃってるわけですね。そして、そもそも国家というのは別の国家の人間、あるいはその国家に属さない人間にたいしてはどうやったとしても人権上の制限をかけることになります。

上述の通り、お約束を覆すのはもちろん可能ですが、この約束を覆すと何が起こるかと、人権の護られない、つまり人間として大抵誰もがされたくないことを、国家とか企業とか他人とかにされちゃう人たちがいてもいいということになっちゃうんですよね。日本では弱肉強食とか上下関係とか平気で肯定しちゃう人がいっぱいいるようですが、まさにそれのことです。人権は圧倒的に弱い個人を別の相対的に強い個人、あるいは企業や政府などの個人以上の集団から護るものなわけです。って、なんでこんなことを説明しなきゃいけないのでしょうか。



うーん。やっぱだいぶ内容が変わったな。おまけに最初の消えた文章は30分で書き終えたのに、今度のは3日かかってしまった。いくら旅行中とはいえありえないぐらい時間のかかり方。おまけにはっきり言って最初の失われた文章のほうが10倍デキがいい。文を完全に思い出せないので、センテンスがちゃんと繋がってない。おまけに最初に書いたこととぜんぜん違うこと言ってる。あー腹立ってきた、ぷんすかぷんすか。もうちょっとでキーボードクラッシャーになるところだったよ。